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Day348(神の使者:P.483-484、ACIM:M-27.04:02-05:04)

あなたはこれからも何年も学び続け、成長していくでしょう。そしてもっともっと気づき、もっともっと理解していくわ。もう一度言うけれど、これからもっともっと赦そうと決意すれば、とても役に立ちますよ。この数年、あなたはたくさんのことを赦してきた。それなら、もっとがんばってみたらどうかしら?「コース」を学ぶほかの人が妥協や讓歩をするのはほうっておきなさい。あなたの仕事はその人たちを止めることではなく赦すことですもの。あなたには譲歩や妥協は必要ないーほんとうはほかには誰もいないんだしね。たくさんに見える、たった一つのエゴがあるだけ。一見ばらばらに見える人たちのなかで、死の夢への信念ほど妥協や譲歩が簡単に受け入れられるものはありません。「コース」にも、こう書かれているわね。
ーもし死が現実なら、生命はあり得ない。死は生命を否定する。だが生命が現実なら、死は否定される。これについては妥協や譲歩はあり得ない。恐怖の神があるか、「愛のそれ」があるか、どちらかだ。世界は千もの妥協や譲歩を試みるし、これからもさらに千もの妥協や譲歩を試みるだろう。だが神の教師には一つとして受け入れられはしない。なぜなら神には一つとして受け入れられないから。「彼」は死をつくりはしなかった。「彼」は恐怖をつくりはしなかったからだ。どちらも「彼」にとっては無意味である。
死の「現実」は、神の息子が身体であるという信念にしっかりと根を下ろしている。もし神が身体をつくり出したのなら、死は確かに現実だ。そうであれば、神は愛ではないだろう。この点以上に、真の現実の世界の概念と幻想の世界の概念との対照が明らかに示されることはない。(神の使者:P.483-484)

Let others compromise the Course. It’s not your job to stop them, only to forgive them. You have no need for compromise—and there isn’t really anyone else out there. There is only one ego appearing as many. Among the seemingly separated ones there is no belief where compromise is more willingly accepted than the belief in the dream of death. As the Course puts it:
…If death is real for anything, there is no life. Death denies life. But if there is reality in life, death is denied. No compromise in this is possible. There is either a god of fear or One of Love. The world attempts a thousand compromises, and will attempt a thousand more. Not one can be acceptable to God’s teachers, because not one could be acceptable to God. He did not make death because He did not make fear. Both are equally meaningless to Him.
The “reality” of death is firmly rooted in the belief that God’s Son is a body. And if God created bodies, death would indeed be real. But God would not be loving. There is no point at which the contrast between the perception of the real world and that of the world of illusions becomes more sharply evident.(D.U.:P.390)

M-27.04:02-05:04の引用です。

もし何にとってであれ死というものが実在するのなら、生命は存在しないことになる。死は生命を否定するものである。だが生命に実在性があるのなら、死が否定される。ここに妥協の余地はない。恐れの神か、愛の神か、どちらかしかあり得ない。世界は無数の妥協を試みており、これからも幾度となく妥協しようとするだろう。そのどれ一つとして、神の教師たちには受け入れられないものである。なぜなら、そのどれ一つとして、神に受け入れられないものだからである。神は恐れを作り出さなかったので、死も作り出さなかった。そのどちらも、神にとては等しく無意味である。
死の「実在性」は、神の子は肉体であるという信念に堅く根ざしている。そして、もし神が肉体を創造したというのなら、死はまさしく実在するものとなる。ただし、神は愛に満ちた存在ではないことになる実相世界の知覚と幻想の世界の知覚との間にある対照性が、これ以上に際立って明白になる地点はない。『奇跡講座(中央アート出版社)』

いかなるものにとってであれ、死が実在するならば生命はありません。死は生命を否定します。しかし、生命の中に実在性があるならば死は否定されます。このことにおいてはいかなる妥協も不可能です。怖れの神がいるか、「愛の存在」がいるかのどちらかです。この世界は千の妥協を試み、更に千の妥協を試みます。そのどれ一つとして「神」の教師は受け容れることはできません。なぜなら、どれ一つとして「神」には受け容れることができないからです。「神」は怖れを作られなかったがゆえに死を作られませんでした。死も怖れも「神」には等しく意味がありません。
死の"実在性"は「神の子」は肉体であるという信念にしっかりと根を下ろしています。そして、もしも「神」が肉体を作られたとすれば、死は確かに実在するでしょう。しかし、「神」は愛に満ちた存在ではなくなるでしょう。実在の世界についての知覚と幻想の世界についての知覚の対照がこれほど鋭く明確になる点はありません。(大内博訳)

もし何かが本当に死ぬとすれば、生きているものはなにもない。死が生きることを否定している。だが、もし生きることが真実のすがたなら、死は否定される。これには少しの妥協もありえない。あるのは恐れという自我の神か、御愛そのものである神、そのどちらかだ。この世は多くの妥協を試み、その上にまた何度でも妥協しようとするだろう。その一つたりとも神の教師たちには受け入れられない、神が受け入れてくださりそうなことは一つもないのだから。神は恐れを生じるようなことをなさってはいないので、死を作ってはおられない。その両方とも神にとっては同じように無意味なことである。
死は「現実」であるということは、神の子はからだそのものだという信念にかたく根ざしている。そして、もし神がからだを創造なさったとすれば、死はまったく本当のことだろう。しかし、神は愛に満つる存在とはいえなくなる。実相の世界でのものの見方と錯覚の世界でのものの見方とが対照的であることが、これほどきわだって明白なところは他にない。(田中百合子訳)
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FamilyofGod

Author:FamilyofGod
ACIM学習者です。スピリチュアルな事は余りわからないまま、コースに入りました。
「神の使者」を読んだのをきっかけにACIMを学ぶようになりました。
サラリーマンで技術畑を軸にくらしてきたので、スピリチュアルなことに係わる事はありませんでした。なので、実生活では、スピリチュアルなことを話せる友人・知人がおりません。
こちらで色んなお友達ができることを期待してます。
また、ブログも初めてですので色んなことを御教授頂ければと思います。
よろしくお願いします。

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